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『怨親平等』の心で平和を伝え継ぐ

今年の8月22日は、太平洋戦争中(1944年)に沖縄から九州へ疎開する子どもたちを乗せた学童疎開船「対馬丸」がアメリカ軍に撃沈されてから80年。

また、対馬丸事件で犠牲になった1,484人の御霊を弔い慰めるために建立された慰霊碑「小桜の塔」の建立から今年で70年、対馬丸事件を後世に正しく語り継ぎ、未来を担う子どもたちに平和と命の尊さを伝えるために建設された「対馬丸記念館」の開館から20年という節目の年でもあります。

私たちは「対馬丸の悲劇を忘れず、次世代に伝え、絶対に戦争をしない」という強い思いを共有しなければなりません。

小桜の塔の建立に情熱をかけた方々、沈没した対馬丸の発見に努力された方々、対馬丸記念館の建設を決断した人々、これまでの80年の歴史は決して簡単なものではなかったと思います。

毎年8月22日に行われる対馬丸慰霊祭は、この80年の歴史の中で陰の立役者となった方々に正しく尊敬の念を表す場でもあると思います。

歴史をつなぐときには、知られざる活躍をした方々の労をねぎらい、評価することで、それが絆となり、後世の人々の心を鷲掴みすることになるからです。

今年の対馬丸慰霊祭は、そういった歴史の深さを感じる言葉が少なかったように思います。

公益財団法人対馬丸記念会の高良政勝理事長の挨拶に、対馬丸の沈没地点の特定・発見、対馬丸記念館の建設に尽力された当時の対馬丸遭難者遺族会の喜屋武盛榮会長、その後を継いだ上原妙会長への感謝の言葉があってもよかったのではないでしょうか。

自見英子沖縄担当大臣の挨拶では、対馬丸の発見に尽力された当時の鈴木宗男沖縄開発庁長官を正しく評価しても良かったのではないでしょうか。

玉城デニー沖縄県知事の挨拶に、対馬丸記念館の建設に際して沖縄県の窓口として頑張った当時の稲嶺惠一沖縄県知事への労いがあっても良かったのではないでしょうか。

知念覚那覇市長の挨拶に、対馬丸記念館の建設用地として旭ヶ丘公園を提供する決断をした当時の親泊康晴那覇市長の政治決断を、若い市民に誇りを持たせるように表現しても良かったのではないでしょうか。

これらの事業は「険しい山」「高い壁」であり、それを乗り越えるには多くの人々の努力があったのです。

日陰で支えた人々を大事にすることが、対馬丸を後世に繋げることになります。

「怨親平等(おんしんびょうどう)」

これまでの恨みつらみをすべて水に流し、敵味方なく許し合うという意味です。

私は、この言葉を対馬丸で実現したいと考えています。

対馬丸を撃沈したアメリカの潜水艦ボウフィンは、ハワイにあるボウフィン博物館に展示されています。

私は2016年12月8日、真珠湾攻撃から75年目の追悼式典に参加しましたが、その時、ボウフィン博物館と対馬丸記念館が、オバマ大統領と安倍総理の前で平和の署名をすることを提案し、実現寸前まで行きましたが、叶いませんでした。

私は、世界が混乱している今だからこそ、「怨親平等」の考え方の下に、ボウフィン博物館と対馬丸記念館が、世界に向けて平和を発信することに取り組み、実現したいと考えています。

今度は、大統領と総理大臣ではなく、ハワイ州知事と沖縄県知事が見守る中での署名を実現したい。

私たちは、歴史を正しく認識し、平和を伝え継ぐために陰ひなたで頑張られた方々を忘れるこがあってはいけない。

悲劇を二度と起こさないための平和を「繋ぐ」には、「人の輪を大事にすること」と「正しい活動の歴史を謙虚に繋ぐこと」です。

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