(2023年8月25日にメールマガジンにて配信された内容を転載しています)
令和5年8月22日、4年ぶりに開催された対馬丸慰霊祭に参列し、1,484人の犠牲者の御霊に手を合わせ、「もう二度と戦争という悲劇を起こしてはならない」と、胸に誓いました。
平成9年9月、対馬丸遭難者遺族会の喜屋武盛榮会長(当時)が私の事務所にお越しになり、「対馬丸の沈没地点が特定されていないので、どこで慰霊祭をやっていいかわからず、想像される4か所で慰霊祭をしている。子ども達がどこに眠っているのかを探して、その場所で、真心を込めて手を合わせたい」と涙ながらに訴えられました。
私は、対馬丸の発見に全力で取り組むことを決意して、動き始めましたが、厚生省(当時)の援護事業の担当者からは、「先の大戦で3000隻の沈没船がある。対馬丸発見のためだけに予算をつければ、あとの2999隻をどうするのか」というような、超役人的で素っ気ない返事が返ってまいりました。
しかし、沖縄開発庁の長官であった鈴木宗男先生は、「喜屋武会長の思いを遂げねばならぬ」と考え、沖縄開発庁から1億円の調査費を計上し、その予算を科学技術庁に付け替えるという異例の措置を講じて、対馬丸発見に全力を注ぎました。
海上自衛隊をはじめとする各関係省庁が、当時の資料をしらみつぶしに検証・分析し、沈没地点を推測しました。
予算の関係で「深海で探査できるチャンスは1回だけ」という緊迫した状況のなかで、深海探査機「ドルフィン3K」は、海底に眠る対馬丸を発見したのです。
「対馬丸を発見したとき、『なつしま』の周りを、虹が包んだんです」と、那覇港に帰港したドルフィン3Kの支援母船「なつしま」の船長は、涙を流しながら私に話してくれました。
1,484人の御霊と遺族の思いが神様に通じたとしか考えられない奇跡が起こったのであります。
それを受けて、平成10年3月7日、政府主催の洋上慰霊祭を行ったとき、鈴木宗男先生の多大なる貢献に対し、涙が止まりませんでした。
その後、遺族会の要請などを経て、対馬丸記念館の建設に向けて動き始め、当時、沖縄開発政務次官であった私は、沖縄県の稲嶺知事(当時)と密かに調整を行い、記念館の建設場所は、那覇市の親泊市長にご理解いただき、旭ヶ丘公園内に建設することになったのです。
しかし、このことが新聞にスッパ抜かれ、当時の私の上司であった野中広務官房長官兼沖縄担当大臣に相談がなかったということで、野中大臣が激怒し、対馬丸記念館事業は一旦ストップせざるを得ない状況となりました。
しかし、当時の厚生省援護局長の、「対馬丸記念館は建設すべきだ」という強い意志のもと、慰藉事業としてではなく、社会福祉事業として建設されたのです。
また、当時の自民党沖縄県連は、野中大臣に忖度し、「記念館の管理運営が不透明だ」との理由で県議会での予算を否決し、難航したことも事実です。
しかし、喜屋武会長の後を継いだ上原妙会長が、当時の橋本沖縄担当大臣に「この事業の維持費は国が出すべきでしょう」と、血相を変えて食ってかかったことで、国が運営費を拠出することとなり、沖縄県議会は、総工費2億3000万円の予算を可決しました。
「鈴木宗男先生が1億円もの予算を沖縄開発庁から計上した決断」「厚生省援護局長が記念館建設を社会福祉事業として扱った決断」「喜屋武会長と上原会長の強い信念」というような功労者の御苦労を、私たちは忘れてはなりません。
慰霊祭においても、そのような感謝の気持ちを示すことが大事ではないかと思います。
「先人の努力があるから今がある」
その考え方・思いは、全てのことに当てはまることであり、特に、対馬丸事業を進める財団の皆さんは、その深い認識を持ちながら、後世へ、平和へのエネルギーを伝えていくことが大事なことだと思います。