(2021年7月9日にメールマガジンにて配信された内容を転載しています)
2021年7月9日は、私の政治の師・山中貞則先生の生誕100周年という記念の日です。
今朝の地元紙には、山中先生の生誕100周年を祝う全面広告が掲載されておりました。
山中先生の功績を忘れることなく今日の日を祝ってくださる皆様にも、山中門下生として感謝の気持ちでいっぱいであります。
私が山中先生と初めてお会いさせていただいたのは、今から37年前、22歳のときでありました。
山中先生が第1次中曽根内閣の通産大臣を務められていたとき、脳梗塞で倒れられ、そのリハビリ治療のために、石垣島に滞在されておりました。
船上で揺れを感じることがリハビリになるとのことで、山中先生は船に乗り釣りをされておりましたが、その間、私が餌をつけて投げる係を任命されたのです。
これが、私と山中先生との出会いでした。
11年にわたってこの役割をさせていただいたことで、山中先生の隣で、山中先生の言葉を直に聞かせていただき、国政のさまざまな動きを肌で感じることができました。
山中先生のそばにいたことで政治の重要性を学び、「政治家が本気になれば、地域を変えることができる」と心から感じることができるようになったことが、私の国政出馬の大きなきっかけとなりました。
「沖縄の人の立場に立て」「保革の政治に惑わされるな」「沖縄に何が必要なのかをたえず考え、沖縄の人の声を大事にして政策をつくれ」「やらなければいけないことで法律がなければ、法律を立案せよ」「予算がなければ、予算をぶんどってこい」「基地の金網のなかから沖縄を見るな」私の政治の根底には山中イズムが根付いていることは間違いありません。
山中先生は、私が衆議院議員に初当選した後も自室へお呼びくださり、ご指導をいただきました。
「政治家は話を聞くだけではダメだ。提案をするだけでもダメだ。必ず結果を出せ」それはつまり、沖縄県民の声を決して中途半端に受け止めてはいけないという教えだと認識し、その言葉を今なお忘れず、小さい声にも大きな声にも、絶えず結果を出していく政治を行うことを肝に銘じております。
衆議院議員1期目のとき、こんな出来事がありました。
私が沖縄整枝療護園を訪問した際、PTAの方が施設の不備を指摘し、「このままでは子供たちが安心して教育を受けることができない。子供たちが、もっと伸び伸びと励めるような教育環境をつくってください。そのことが子どもたちの未来を明るくします」という、切実なお話を聞かせていただきました。
私はすぐに厚生省へ予算確保のための行動を起こしましたが、まだ1期目の私は、右も左もわからず、しかも、“年度途中”という中途半端な時期でもあり、予算付けを行うことに苦労し、なかなか結果が出せずにおりました。
自らの力不足を認識し、山中先生にご相談させていただいたとき、「この沖縄整枝療護園の話は、政治家としてやらなければいけないことだ。子どもたちのためにも、このことを実現することこそ大事だ」とおっしゃり、厚生大臣に電話をかけ、「予算をつけろ」という話をした後、「年度半ばだろうが何だろうが関係ない。子どもたちのことを考えたら、予算を探してくるのが厚生大臣の仕事だろうが」と電話で話されておりました。
その姿を見て、私は「これが政治なのだ」と思うと同時に、涙が溢れてとまらなかったことを、今でも忘れることはありません。
山中先生の政治のキャリアのなかでは、ほんの些細なエピソードだとは思いますが、山中先生は数多くの弱い立場の方々に寄り添いながら結果を残してきたことは間違いありません。
私も、山中先生の「政治の生き様」をしっかり心に刻み込み、生誕100周年を迎えた今日の日を、自らの新たな政治のスタートにしてまいりたいと思います。
毎年2月には鹿児島で山中先生の墓参りをさせていただき、山中貞則顕彰館に展示された一つひとつを幾度も幾度も確認しながら、骨の髄まで山中イズムを通わせる下地ミキオでありたいと肝に銘じております。
“賢しらに沖縄の心語るなり 栄光と苦難の歴史は知らず”
「沖縄問題に中途半端なことはするな」山中先生の思いがこもったこの言葉を、これからもしっかりと大事にしてまいります。
山中先生、生誕100周年、本当におめでとうございます。