(2020年10月23日にメールマガジンにて配信された内容を転載しています)
私・下地幹郎を政治に導いてくれた元自民党沖縄県連幹事長・沖縄県議会議員 比嘉勝秀先生が10月20日にご逝去されました。
79歳での急逝、本当に残念で残念で仕方ありません。
私が18歳で初めてお会いしてから今日までの40年間を思い出し、溢れる涙を止めることはできませんでした。
「幹郎が大学を卒業したら竹下登先生の事務所に丁稚奉公させ、東京で通用する政治家に育てる」
比嘉先生は、大学生の私にいつもこう話されていました。
比嘉先生のお力で丁稚奉公できる環境が整いましたが、私がどうしても父の会社に入らなければならなくなり、こっぴどく叱られたのと同時に「会社に入っても政治を忘れてはならない」と諭されたことを思い出します。
私が政治を志した平成6年、自民党の公認を得るための壮絶な戦いで、事務総長として頑張られたのも比嘉先生でした。
あの壮絶な公認争いに勝てたのは、比嘉先生の人脈があったことが大きな要因です。
衆議院議員初当選後の東京での最初の夜、二人で酒を飲みながら「竹下事務所に行かないと決めてから14年を経て幹郎が政治家になった。本当にうれしいよ」という言葉を鮮明に覚えています。
比嘉先生はいつも3つのことを口酸っぱくおっしゃいました。
「沖縄の政治家は琉球の歴史を勉強し、そこから今の沖縄の政治はどうあるべきかを考えなければならない」
「沖縄の政治家は、哲学やイデオロギーで決断するのではなく、沖縄県民が望む視点でもって決断するべし」
「政治家は、自分が生まれた場所、比嘉勝秀ならば山原・国頭の未来を毎日考えなければならない。“ふるさとファースト”でなければ、沖縄県全体のことも、日本のことも考えることはできない」
私は、その教えを守り、沖縄の歴史に則し、決断は県民視点で、ふるさと愛を忘れることなく、政治家としての道を歩んでまいります。
私と比嘉先生の政治の大きな転換点は平成17年、政府・自民党が決めた米軍普天間飛行場の辺野古移設に下地幹郎が反対し、嘉手納統合案を発表したことで、自民党を離党したときでありました。
比嘉先生は当時の自民県連の幹事長として県連を差配していましたから、党本部との関係で相当に苦しい立場に追いこまれていたと思います。
「自分の教え子である下地幹郎を守らなければいけない」
「党人としての役割も果たさなければいけない」
比嘉先生は私が想像する以上の苦しい時間を過ごされたと思います。
結局、比嘉先生は「政治家が対案を示すことの何が悪いんだ」と下地幹郎を選び、私と一緒に自民党を離党することになりました。
その後もずっと今日まで一緒に政治の道を歩いてきましたが、私が国民新党に入党するときには「政権与党のど真ん中で、大臣になって沖縄のために頑張れ」、日本維新の会に入党するときには「橋下徹と下地幹郎が組んだら、沖縄は面白くなる」と、私の節目にはいつでも決断を後押ししてくれました。
私と一緒に自民党を離党してさえいなければ、自民党県連会長や沖縄県議会議長といった要職を務められたことは間違いありません。
「44歳の若い政治家・下地幹郎に俺はかける。俺の政治そのものを幹郎に実現してもらう。そのほうが沖縄を変えることになると信じている。俺の政治の歩みについては、もう心配するな」とおっしゃった比嘉先生のお顔が今まさに頭に蘇っています。
今日、安らかに眠る比嘉先生のお顔を拝見し、棺を担ぎ、その重みを感じながら、私に政治の全てをかけてくれた比嘉勝秀先生の思いをしっかりと改めて受け止め、政治を前に進めなければならないと、先生に誓いました。
勝秀先生、安らかにお休みくださいとは言いません。
いつでも夢に出てきて、これからも政治をご教示くださいますことを、幹郎は願っています。
本当に長い間、ご指導ありがとうございました。