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対馬丸を忘れない

対馬丸慰霊祭が行われました。

この悲劇を、私たちは後世に引き継ぎ、いかに平和が大事なのかということを、たえず確認すべきです。
後世に伝えるということは、この悲劇を後世に伝えるために様々な活動をした人たちのことも伝えていかなければならないのです。

今年は、対馬丸記念館の15周年。
記念館の建設に力を注いだ多くの人たちの努力も引き継がなければ、対馬丸の悲劇をしっかりと後世に引き継ぐことはできないと思います。
その意味でも、慰霊祭は、悲劇と悲劇を伝え継ぐために努力した人たちの物語を、若い人たちに引き継ぐことが大事です。

当時の喜屋武会長の「もう、三カ所で慰霊祭をするのは嫌だ。子供たちがどこに眠っているのかを探して、その場所で真心を込めて手を合わせたい」という言葉に動かされたのが鈴木宗男先生でした。
そのことで対馬丸の沈没地点が確定し、政府主催の洋上慰霊祭、対馬丸記念館の建設へと動いたのです
また、当時の上原会長が記念館の維持費が確保できず悩んでいる時に、当時の橋本総理に対して、「国の責任でやるべきではないか」と涙ながらに訴え、内閣府の予算で維持費が確保されることになりました。
対馬丸が発見された時「しんかい6500」の母船の周りを大きな虹が包み、船員みんなが涙しました
対馬丸記念館が完成するまでには、記念館の建設場所について親泊元那覇市長の決断も忘れてはなりません。
しかし今日の慰霊祭では、歴代の会長のエピソード、親泊元那覇市長や科学技術庁のみなさんや予算をつくった内閣府、当時の鈴木宗男沖縄開発庁長官の名前は全く話されることはありませんでした。

戦争の悲劇を次の世代に語り継いでいきたい。
それは上部だけの言葉ではなく、対馬丸記念館をつくるために頑張った人たちの苦労も評価されてしかるべきです。
悲劇だけを伝えていこうとすることは、逆に、悲劇を引き継ぐことの大事さを失ってしまうのではないかと思います

いま頑張っている人たちのことだけではない。
これまで対馬丸の問題、記念館建設、維持に頑張ってきた人たちを大事にすることから、すべてが始まるのです。
いま頑張っている人たちが、歴代の会長や対馬丸にまつわる方々を大事にし、評価することが、対馬丸の悲劇を後世に残すことになります

それがなくなれば、対馬丸の悲劇を伝える人たちが途絶えたり、伝える思いが弱くなったりする危険性があります。
対馬丸記念館15周年という節目で、式典での話を聞きながら、残念な思いになったことは私だけではないと思います。
これまで頑張ってきた人たちの歴史を大事にすべきです。


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