沖縄が好きだから、今もこれからも前へ進む!

2015.8.13放送分「70年目の終戦日/広島の原爆式典/平和への思い」

【オープニング】

ひろみ/8月13日木曜日です。皆さん、こんばんは。本村ひろみです。 ミキオポスト OnRadio、メインパーソナリティーはこの方です。 ミキオ/下地ミキオです。よろしくお願いいたします。 ひろみ/ミキオさん今週もよろしくお願いします。 ミキオ/お願いいたします。 ひろみ/今週は素敵なゲストの方をお迎えして、70年目の終戦の日を前に、特別企画ということで、平和について60分考えまいりましょう。 ミキオポスト OnRadio、この番組は、北部地域はFMもとぶ、中部はFM21、南部地域はFMレキオ、そして、FMくめじまの4局ネットでお届けしています。また、インターネットでは世界中に配信をしております。 そしてきょうも、アイセック・ジャパンさんのサービスを利用してリアルタイムで文字情報を配信しています。ぜひサイト、ミキオポストのトップページから御覧ください。 きょうの1曲目はこの曲です。サザンオールスターズで「平和の琉歌」。 ♪ サザンオールスターズ/平和の琉歌 ♪

【70年目の終戦日】

ひろみ/ミキオポスト OnRadioお届けしております。 さあ、今週のゲストなんですけど、ミキオさん。もうミキオさんも、大変よく御存じでいらっしゃいます。上原 妙(うえはらたえ)さんにお越しいただいております。 上原さん、まず御挨拶いただきます。こんにちは。お願いいたします。 上原/こんにちは。 どうもよろしくお願いします。 ひろみ/ちょっとご紹介させていただきますと。 妙さんは13歳のときに学童疎開の1人として、対馬丸に乗船したんですよね。昭和19年8月22日、終戦の1年前にアメリカの潜水艦の攻撃でこの対馬丸が沈没したんですけれど。海に飛び込んだ上原さん、奇跡的に救助されたということで。そのあと宮崎県の疎開でもいろいろ苦労されたと伺っています。 今はほんとに見るからに大変美しい、若々しくお元気でいらっしゃいますけど。 上原/おかげさまで。美容の業をやっておりますので。いつも若くしてないと。 ひろみ/今は沖縄のブライダルをひっぱってる、モード・マリアージュさんの代表も務めていらっしゃるという上原妙さんです。 もうひと方、ご紹介をいたします。 遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の代表、具志堅隆松(ぐしけんたかまつ)さんです。具志堅さん、きょうはありがとうございます。 具志堅/ありがとうございます。具志堅でございます。 ひろみ/ちょっとプロフィールご紹介しましょう。 具志堅さんは1954年、那覇のご出身です。1982年以来、ボランティアで沖縄における遺骨収集活動を続けています。NPO、県民の手による不発弾の最終処分を考える会の代表を務め、現在は沖縄戦遺骨収集ボランティアのガマフヤーの代表を務めていらっしゃいます。 この終戦の前になりますと、具志堅さん大変取材のほうも多くなってくるのではないでしょうか。 具志堅/そうですね。どうしてもこう、なんというんですか。6月23日、そして8月15日の前になると、本土のマスコミも含めて取材が殺到します。 ひろみ/特に今年は70年を迎えるということもありますので、ここからはちょっとお1人ずつ伺っていきますが。 上原さんは、大変ミキオさんとも昔からよくご存知でいらっしゃるということで。 上原/対馬丸記念館をつくることができたのは、創設できたのはミキオ先生のおかげなんですよ。はっきり申し上げる。 私、遺族会の父兄の方はもうみんなお年でね。私でも今85歳でしょ。そのお父さんといったら、今このあいだも両陛下がいらしたときに、この会長だった先生いらしてましたがとっても元気でね。あれでしたけど。もうなんというのかな、やはり子どもを亡くされた対馬丸の会長というのは矍鑠(かくしゃく)たる。今コザにいらっしゃるけど。この間お会いして、全く変わらないんでね。それで私生き残りだから、なるべく逃げ回っていたのですが。でもミキオ先生のおかげで対馬丸記念館をつくることになって、それで東京に行ったりきたりするのも、先生のおかげで。 参議院会館行ったら先生の事務所は、ずらーっと陳情者が並んでいるわけ。そしたらあの頃はナカムラセイジとかいろんな方がいて。先生のとこだけ陳情者がずらっと並んでいるわけ。そこにいって、私は目をみはったんですが。ああ、この先生ならやってくださるかもともう心強くて。 ミキオ先生のおかげで対馬丸記念館ができましたので、ほんとにもう感謝してます。 ひろみ/ミキオさん、この対馬丸についてなんですけれども。 ミキオ/この対馬丸記念館はですね。当時の喜屋武会長、きょうお越しの上原妙さんなんかがもう本当に情熱を込めてやられたんですよ。はじめは対馬丸は、慰霊祭を3カ所でやってたんですよね。もう3カ所でやって、ここで沈没したんじゃないかな、ここで沈没してないかという所をまわって慰霊祭してたんです。この慰霊祭する場所、沈没の場所をまず確定してくれっていうのが、まず僕らに対しての陳情でしたね。 その次に2つめは、国の責任で慰霊祭をしてくれというのが2番目の話だったんです。それをやることになって、まず慰霊祭をやることになったんです。慰霊祭をやりました。しかし、そのときは3カ所で終わりましたね。3カ所で汽笛を鳴らして、3カ所で花束を投げるということをやったんですけど。 まあ妙先生なんかは、もうどうしても場所を、自分たちの仲間が安らかに寝ている場所を確定しなさいというようなことがあって、それをやることになったんです。当時の鈴木宗男先生が沖縄会長の大臣なんですけど。おもしろいんですけど、沖縄開発庁の予算でこれ沈没船を、対馬丸を探すことになったんです。普通なら厚生労働省の予算でしょ? 上原/そうですか。 ミキオ/それでやろうという話になって。その科学技術庁に「しんかい2000」といって、もうものすごく潜れる、2000メートルまで潜れる船があるんですけど。 それを1回潜らすお金しか予算がつかないんです。もうだから1回のチャンスだけなんです。この1回のチャンスで、どこに潜らすかということを決めるためにこのチームをつくって。 まずこのアメリカのボーフィンという潜水艦の生き残りの人が、対馬丸を沈没させるときにどういうのでみているかという生き残りの証言をとりにいく。それに海上自衛隊で話しをして位置を確認して、この60年間で、この船がどこまで流されたかを計算したんです。全部計算して、もう6カ月かけて皆で計算してここに決めたと。ここに潜るぞと。 だけど1回潜って、見つからなかったらもう終わりだから。それで1回船を、しんかい2000をおろして潜らせたら対馬丸というあの甲板が写真にうつったんです。 上原/ああ、そうですか。 ミキオ/1回。これはね、いえば奇跡なんですよ、奇跡。 そうしたら、当時のそのしんかい2000をやってる科学技術庁の船が、母船があるでしょ。母船からどんどん下にロープつるして2000を潜らせるんですけど。このロボットがその対馬丸と、うつした瞬間ですね。この母船のまわりを虹が包んだというんですよ。うわーっと虹が包んで、もうすごかったらしいです。それでもう船長も船員もみんな泣いちゃって。これでもう奇跡が起こって、対馬丸があそこで発見されたんです。あの写真が出てきたんです。この人たちが那覇港に帰ってきたので私が迎えに行って。それで皆、船上員がみんな泣いていて。感動的なシーンでしたけどね。 まあその写真を当時の橋本総理大臣が天皇陛下にお届けをして、対馬丸の歌を天皇陛下が歌われたというようなことになってですね。これ、ドラマがいっぱいあるんであれなんですが。本当にすごい皆さんの思いがですね、この奇跡の発見をうんだという意味では、喜屋武会長や上原妙先生なんかの情熱、それで海の中で安らかに眠られてる方々の思いみたいなものが、もうほんとに1つになった瞬間だったんじゃないかなというふうに思います。 上原/本当に、あんなに海、現場まで行ってあんなに調べてくださったのは初めて聞いて、びっくりしてます。長いお付き合いだけどね、もう。 ミキオ/当時の海上保安庁の人たちとか海上自衛隊の方々とか、よくみんな頑張ってくれましたよ。もうありがたかったですね。 上原/下地先生だったからできたのよ。先進的にそこまでやってくれる人っていうのは、なかなかいませんし。付き合えば付き合うほど深みが出てくるし。なんというか、助かったかいがあったなって。もう先生をお会いできて対馬丸記念館ができたというのも、これもう私は本当に人生で一番の宝ものだと思っております。 ミキオ/ありがとうございます。また記念館、大事にしていきましょう。 ひろみ/具志堅さんのほうからも対馬丸についてちょっとお話があるということなんですが。 具志堅/ミキオさん、実は去年私たち奄美大島行ってこの対馬丸の被害者の遺体が漂着していた場所を全部まわったんですよ。そして、どこに何体、どこに何体、どこに何体というふうに。それは地元の人たちが、全部埋葬していたのを戦後何年目かに、はやい時期に掘り出して、それでこう沖縄からきた対馬丸のご遺族の方たちに遺骨を105体わたして、沖縄に105体は帰ってきてますよね。 その中で、1カ所だけ遺骨が見つからなかった場所があるんです。要するに埋めたけれども、掘り出そうとしたが探せなかったという場所が。で、そこのその埋めるのに関わった方は、こういうふうにおっしゃっていた。もしかしたら台風で埋めた場所が全部波にさらわれてもっていかれたのかなということをおっしゃってたんですね。それで私たちはその場所の1カ所に、こう縦に切られ…。なんというんですかね。川の工事で1カ所、立水(たてみず)をきってる場所があったんです。その海岸というか砂浜に。そこをさらに掘ってみると、そこの地層って動いてないんです。 要するに台風でこう、撹乱されている様子がないんです。これもしかしたらその掘るときにというか、あとで発掘するときに、場所がずれてるか、堀りたりないか、なんかそういうことがないかなというふうに感じた。それでガマフヤーとして、ここの場所だけはぜひとも試しに掘ってみたいと思ってるんです。まあ探せるか探せないかじゃなくて。 要するに台風で流されたのなら、全部そこが砂があって細かい砂利があって、それから川から流れてきた玉石(たまいし)っていうか、そういったものがちゃんと順序よく並んでいて、ぜんぜん撹乱された様子がないんです。それであれば、ここはまず掘ってみる価値があるなと思ったので。今私たちの中ではそれは一応、計画しようと思っています。 ミキオ/これ、対馬丸のこの漂流して流された方々の遺体ですよね。 具志堅/そうです。これは奄美黄島の西海岸で、宇検村になるんですけど。その場所でその埋葬に関わった方まだ生きているので、その方とももう一度というか、前回私たち行ったときはその方、風邪でお休みになってて、自宅まで訪ねたんですけど直接は聞けなかったのですが。 しかしその方の言うように、もし実際これがこう台風で流されたかもしれないしまだ残っているのかわからない。しかし、まだ残っている可能性があるなら、私はこれは掘るに値すると思ってるんです。これをどうにかして私たち今度、少し涼しくなってからでもいいからまた現場へ行って、地元の了解を得た上で、ぜひとも掘ってみたいと思ってます。 たしか50体あまり、埋めてあったというんです。 上原/そんなたくさん。 具志堅/その埋葬に関わった方という、オオシマアントクさんだったと思いますけど。その方のご自宅まで私たち訪ねて行ったんですよ。だからこの方当時18歳だったということで今でももう高齢なので、もうなるべく年内にはそういうことに着手したいと思っています。 ミキオ/わかりました。 具志堅/そのことについてはぜひ、もしよかったら協力お願いします。 ミキオ/わかりました。いや、大事な良い話ですからしっかり協力させていただこうと思います。 ひろみ/そうなんですか。55体ですとね。 具志堅/そうですね。確かこの場所は、まだ残っている。 上原/そうですか。 ひろみ/今ちょうど具志堅さんのお話が出たところで、具志堅さんの取り組みについても、戦後処理の現状ですね。ちょっと伺っていきたいんですけれども。 具志堅/沖縄戦では、犠牲者は20万656人といわれています。日本軍、それから沖縄の住民、そしてアメリカ軍、そして朝鮮半島から連れてこられた人たち。それから中国人、台湾人それぞれいます。そういう中で、私たちは1人でも多くの遺体を。まあ今は遺骨をなっていますが、そういった遺骨を探し出して。その遺骨をどうにかして家族のもとへかえそうというふうなことでやっていますが。 その家族のもとにかえすには、まず出てきた遺骨に名前があればいいんですが、名前がないのがほとんどです。兵隊ですら、100体掘り出して、5体もないです。名前のある遺品をもっている方は。うちなーんちゅにいたってはもう名前のある遺品を持っている方は、全くゼロです。これは70年もたって名前が書いてあって残るものはもう万年筆や印鑑。印鑑でも木の印鑑ではなく、たとえば水晶や水牛の角(つの)だとか、そういったような印鑑ですが、そういったような高級な印鑑は当時うちなーんちゅはほとんど持っていないです。そういう意味でも、なんというんですかね。遺骨は毎年たくさん見つかります。年間100体以上見つかり続けています。これが減っていくようすはない。そういう意味で私は戦後処理まだ全然終わってないと言ってます。 この身元がわからない遺体を、その人の身元を特定するためには、どうしてもDNA鑑定っていう手法が必要なんです。そしてそのために、実はミキオさんとも何度か厚労省に足をはこんでお願いしてますが。実はこの去った7月7日も一緒に行っていただきました。わざわざ厚労大臣まで会えるようにミキオさんが考えてくれていたのですが。まだまだ、道なかばです。 これからまだ、やることがありますので、これからも一緒に協力も仰ぎたいと思います。 上原/すみません。私の姉もひめゆりの女子師範だったんですよ。どこで亡くなったかわからないけど、今のひめゆりの館長している島袋さんですか。あの人は1級下で。それでどこかって口でおっしゃるけど。一緒に行ってくださらない?と言ったら忙しいと言われて、もしあれたったらお願いしたいんですけど。 具志堅/はい、喜んで。私じゃあ島袋ヨシコさんに、上原さんのお姉さんが亡くなったっていわれてる場所ってだいたいどの辺かというのを聞けば、だいたい場所はわかると思いますので。そのとき、それをまず確認した上で、その現場をあたってみようと思います。 上原/よろしくお願いします。もう私3人きょうだいで、兄がテニアンで戦死、兵隊で。戸籍が名古屋でしたから。姉は女子師範で、ひめゆり部隊ですがどこで亡くなったかわからないが、島袋さんが一緒だってわかるんです。 具志堅/これ何日頃っていわれてます?6月…。 上原/これ聞いてないんです。 具志堅/はい、いいです。 上原/あの方も忙しい。この間も場所をあれしているが。なんか忙しい、忙しいって…。 具志堅/いえいえ、私じゃあ訪ねてから聞いてきます。島袋さん。 上原/すみません。ナシロミエっていいますので。 具志堅/はい? 上原/ナシロミエ。 具志堅/ナシロミエさん、わかりました。 上原/うちはみんな5つ違いでね。私1人で生き残ってこうして沖縄に帰ってきて、対馬丸のあれで。おかげさまでミキオ先生のおかげで記念館もつくらせていただいて。そして、あれしてますけども。姉のことがいつも気になって、この島袋先生が亡くなっただいたいの場所はわかるそうなので。 具志堅/じゃあこれぜひ、あたってみますので。 上原/お願いします。 ひろみ/ミキオさん、いろいろとほんとにこういう話をすると、まだまだ沖縄の戦後処理終わってないですね。 ミキオ/もう70年を、今年迎えますでしょ。 まだ、私たちは沖縄という地域に艦砲射撃で落ちた不発弾の処理がまだ終わってないですよね、これ1点。 2点目には今、ガマフヤーの具志堅さんがやられている遺骨もまだまだというか、具志堅さんから詳しい数字があると思うんですけど、これまったくできてない。しかも、遺骨をちゃんとかえせるようなDNAの鑑定ができていない。 この前、私たちが厚生労働大臣に行ったら、厚生労働省の言うことだからこう言うんだよね。DNA鑑定は、相手もいないとDNA鑑定できないじゃないですか。お互いが照合しないとできないわけです。 だから、この地域で自分の人が亡くなりましたよと、この遺骨が出たが、あなたこの地域で自分の親族が亡くなったということを、いませんかと言って、その人からDNAをとって遺骨を収集するわけです。だけどそんなことやっても、死んだ場所が間違ったら、教えられた場所が全然違っていたら、鑑定しても合わないから照合ができないわけです。 だから、私たちが今回言っているのが、沖縄で自分の親族が亡くなったと思われる方々は、DNA鑑定を全部出しなさいと。それを厚生労働省がちゃんと置いといて、遺骨が出るごとにこのデータと照合していけば、厚生労働省でできるのではないかと。なぜこれをしないかと、具志堅さんとこの前いってきた。これもまだまだできてないから、戦後処理が残っています。 戦後処理というと、こういうものと同時に、きのうも翁長さんと菅さんが話して、1カ月基地を止めるって話しましたけど、この問題も、基地が残っているというのも、戦後処理が解決してない1つの要素です。 こういうふうに私たちが、まだまだ70年という時間においても、私も54年間しか生きていませんから、戦後生まれですから、そういう意味において、この世代が戦後処理をどうするかということを真剣に考えていかないとだめだということを、改めてお2人の語り部の上原さんや、ガマフヤーの具志堅さんの行動を見ていると、政治がしっかりサポートしないといけないなと思います。 上原/ありがとうございます。 具志堅/ありがとうございます。 上原/本当にもう、何て言うか…。 ひろみ/こうやって思いがあるうちに、どんどんおっしゃっていただいたほうが。 上原/兄はテニアンで戦死して、向こうまで行きまして魂をウンチケーしたんですが、姉はそこ、沖縄県なのにどうしてできないのかなと思って、島袋さんを頼って、どうしてもお願いしますって、この間も…。 ひろみ/こういう思いの方が、本当に探したいというお気持ちをどうにか継ぎたいですよね。 具志堅さんね。家族の皆さん、そうやってみんな待ってますから。 具志堅/これですね、上原さん。ミキオ先生ちょっと。 例えば、もし上原さんのお姉さんが、糸満の真壁で亡くなったというのであれば、すでに真壁から出ている遺骨があれば、その遺骨と上原さんと…。 上原/真壁じゃなくて、山がありますでしょ?あっち、何ていうの? 具志堅/与座ですか?与座じゃない? 上原/与座岳じゃない。 具志堅/そこって言っていた場所から出ている遺骨があったら、上原さんとDNA鑑定することできますよ。 私、今までそういうやり方で、戦死したと言われている場所から、例えば浦添市前田で戦死したというなら、そこで出た遺骨がありますよね。その遺骨と、その遺族とやってくださいと。そういうやり方でやっていただいていたんです。 上原/そうですか。 あれは、何岳といいますか。あそこの、山がありますでしょ。南部の。 具志堅/与座岳じゃなくて? 上原/ううん。あっちは何かわからない。 具志堅/いいです、いいです。それはあとで聞かせてください。 ひろみ/現地にね、そのまま一緒に、足を運ばれるのがいいかもしれませんね。 THE BOOMで、「島唄」。 ♪ THE BOOM/島唄 ♪

【平和への思い】

ひろみ/平和への思いについて、ちょっと伺っていきたいんですけども。 ミキオ/きょう、8月7日私たちが、あ、6日ですね。この広島の原爆の式典があって、広島の市長さんがいろいろお話をされてましたよ。平和宣言を。 聞いていて思うのは、なんでこうやって世界の中で唯一原爆が落とされて、こういう被害があるというのがわかりながら核兵器をですね、人を殺すための手段として、戦争の手段として使うということを世界にやめさせられないのかという素朴な思いを持ちますね。もう、あのものは、いかに危険かがわかる。 また、今度の福島の原発を見てもですね、原子力というものの恐ろしさみたいなものを、また感じるわけです。 だけど、世界ではこれが、原発を廃止する条約が成立していないんですよ、皆さん。ここを、政治家が本気で成立させないとだめなんです。 オバマ大統領は、大統領になったときにノーベル平和賞もらいましたよ。それは、原発の破棄を言った。何年までに原発を、全部アメリカも破棄するということを言って、ノーベル平和賞をもらったんです。8年やってきて彼はできていない。 だから、政治家がどう動くかというところを、やはり僕は、きょう安倍総理が、9月の国連総会で自分は強く言いたいと言って、お話ししましたよ。本気で、日本がリードすべき。世界を。原発に関して。それがないと思うんだよ。 被爆国という、唯一だからね。被爆国は世界ではない、日本だけ。広島、長崎。これはね、もっと日本の役割みたいのがあるんじゃないかと。これをやるために、日本が外国交渉をもっとダイナミックにやるべきだと僕は思います。 具志堅/まさにその通りだと思います。世界中でこのことを強く言っておかしくないのは、日本が真っ先だと思うんです。そのわりには、随分遠慮シーシーしているなと。遠慮というか後ろ向きになってしまってないかなというふうな。むしろ、世界中のためになることを率先していいのになと思いますけどね。 ミキオ/この前、イランの核開発の問題で、アメリカの国務長官とかドイツのメルケル首相とか、あれだけの人が集まって夜中まで会議して合意したじゃないですか。日本いないんだよ。日本が、それの…、中国は横に外務大臣が座っているが、日本は座っていない。 具志堅/唯一の被爆国でありながら。 ミキオ/ああいう会議では、日本がいないとだめだと思うんだよね。ヨーロッパの話じゃなくて。日本がいて説得するのが、説得力があると思うんだよ。それができていない。私はそういうところをもう1回、手直ししないといけないと思います。 具志堅/もっと、ぜひ、お願いします。なんて言うんですかね。今のミキオさんの言っていたことは、まさにそのまま、どこでも通用すると思いますよ。 上原/そう。本当に。 ミキオ/やっぱり、僕らのその政治家の役割みたいなものをもう少し、特に僕ら沖縄選出のものとしてはしっかり発信しないといけないと思っているので、このことについてまた頑張ってやっていこうと思います。 ひろみ/上原さんのほうからも平和についての思いですね、これからの未来について考えていることがあれば。 上原/そうですね。今の子どもたち、こんなに全てが整われて、なんの不自由もなくきているが、私がこういう話をしてもぴんとこないと思うんですよ。 ですから、できたら、例えば本にでも、こういう戦争というのをどうだったという過去のことを、今の小さい子どもたちにもわかりやすいように、いろんなそういう面を、教育の面でもやってほしいと思いますね。 特に沖縄の場合は家族にもいっぱいいますので、実際にその手をとるようにしてわかると思うんですけど。私が努めてお話はしていますが、なかなかぴんとこないみたいなので、それを戦争というのは、こんなこんなで、どれだけ、どういうふうに犠牲になったかというのを実際に本にして、沖縄だけでもいいですから教育の面でも。 だって、ひめゆり部隊とか何部隊とか、みんな学校の人たちが戦死してますでしょ。男の人も女の人も。この戦争に荷担したという。結局、学童疎開でも対馬丸でも、子どもたちを絶やさないようなつもりで疎開させたと思うんですよ。学童疎開。 向こうに行っても、その体制は整われてなかったんです。はっきり言って。ただ、今までの学校の校舎に入れられて、それで毎日の食事も、私なんかが行ったところは田舎だったからいいですが、農家に行って、食料を買ってやっても、農家としては、教室、兵隊のほうに出さないといけないからって悪いものしか売ってくれないわけですよね。引率の先生と一緒に買い出しに行ったり、あのときは空襲にはあわなかったですが、高等科を卒業しない前に、学徒動員で宮崎の工場にマユの***、糸を紡ぐところに行きました。そこではもう、食事が不自由なく食べられましたが、学童疎開のときは、やはり自分たちで買い出しに行って、そして自分たちで炊事して、こうしてやっていたんですね。小さいながらも。こういうあれで助かったという面もありますけどもね、やっぱり小さいときからこういうあれも本にしてね、今の若い子たちは贅沢で何にもわからないし、ものを大事にするという習慣も、それから地域的に沖縄というところは日本からちょっと離れていますし、いろいろな面で違うところがたくさんあります。そういうところを、もう、私が生きている間に教えてほしいんです。 ひろみ/生の声をね、本にして残していきたいという思い、これほんとに進めてほしいですね。 具志堅さんのほうも、平和についての今考えていること、平和への思いを聞かせていただきたいんですけど。 具志堅/そうですね。まず、沖縄で戦争があって多くの人が亡くなったということ、このことをまず地元の人間が知るべきだろうというふうなこと。沖縄には、まだその現場が残っています。実際に出てくる現場もある。そういう現場を、できるだけ若い人が訪ねてほしい。そして亡くなった人を…。 遺骨を見るという言い方は私はしません。亡くなった人に会ってほしいというふうな言い方をしています。 亡くなった人に会うことで、なぜその人がそこで殺されなければいけなかったか。そして、私たちは2度とこういう目にあわないという担保を手にしているのか、そのことを考えてほしいと思います。 そして、その亡くなった人を、ぜひとも、最後の、その人にとって1番の希望であるであろう、自宅にかえらせてあげるというか、そういうことを実現するべく、若い人たちにも、そういう意識を持ってもらうためにも、できるだけそういうことを発信していきたいと思っています。 ひろみ/この熱い思いは、絶対にみんなに心に通じていると思います。 ミキオさん、お2人はそうですが、ほんとに沖縄ではまだこうやって熱い思いでかえってきてほしい、家族にと思っている方がいっぱいいらっしゃるわけですよね。 ミキオ/もちろんですよね。もう、だから、僕ら少し、その経済という概念とか、生活という概念というものに、ちょっと沖縄は他府県に比べて所得も低いし厳しいから、まずご飯を食べなきゃみたいな感じになっているんだけど、今、上原妙さんからお話あったように、今、少し沖縄は落ち着きつつある。70年目だからこそですね。100年目にはある程度、2つの問題、この遺骨収集と不発弾の処理というのが、次の世代には、もう絶対につながないで、この世代で終わらすというようなことを戦略的に政治がやっていく。そして、次の世代にどう伝えていくか。 今、お話があったように、本当に伝えるのは難しい。経験のない人たちというか、僕らは一世代でしょ。戦争を経験した人の次の世代です。それまではいいけど、それの次の私の娘の世代に、おじいちゃん、おばあちゃんのこと伝えるのは難しい。これね、学校教育でやる以外ないです。だって、お父さんは僕だから。そしたらうちの娘が20歳。これが25、30になって子どもできたら、僕は戦争経験者じゃないおじいちゃん、おばあちゃんになる。これはね、今、自分の親だからわかるよね。おじいちゃん、おばあちゃんから聞いて。自分のお父さん、お母さんから僕らは聞いている世代だから、まだ実感がある。 具志堅/ミキオさん、ここで1つ提言ですが、私はこの現場に、きのうもそうだったんですけど、若い人たちを体験発掘したいということで、よく案内しているんです。それは極力断らないようにしています。そういう現場を、これから先まだまだ出てきます。そういう現場というのが。そういうのをむしろ効果的に、教育の中に組み込んでいくというふうな、そういうふうなことを…。 ミキオ/これは大事と思います。 具志堅/これを、すぐに公的な形にはならなくても、いわゆるプライベートというか私的な形でも、そういうことを続けていきたいと思いますし、そのことによって、子どもたちが、全然全く戦争を知らない子どもたちが、ほんとに現場に行くと声を失います。中には泣き出しそうになる子どもたちもいます。でも、それはそれで、その子どもの心を、トラウマを残さないよう、傷つけないようなやり方で、しかししっかりと受け止めてもらえると思っていますので、そういうのはやはりもっと、なんと言いますか、できるだけ希望するというか、子どもたち、あるいはそういう意識のある子どもたちには、現場で受け入れたいと思っています。 だからそこら辺は、これから先、その戦争をどう検証して、継承していくかということについては、沖縄はほかの他府県と異なるのは、現場がまだ残っているということですから、その現場を私は、現場で亡くなった人と会ってもらうことによって、やはり意識は変わるものがあると思っています。 ミキオ/だから、なんか、米軍基地の運動から平和をひもとこうとするのが多い。反米、というか、反基地勢力の提案が、提案=平和主義みたいなことがある。 具志堅/私は、戦争から平和を見ていただきたいと思っています。 ミキオ/そうそう、ここなんです。僕もそう思う。だから、うまく言いにくいけど、戦争のあった現実から平和をひもとかないと、私は、この平和論争がイデオロギー論争に変わる可能性があると思う。 だから、遺骨収集や不発弾の処理は、誰しもが否定できないものなんです。誰しもが。 具志堅/みんなが被害を受ける可能性があるしというふうな…。 ミキオ/これを否定する人っていないんですよね。 だけど、米軍基地問題も考え方が違うわけ。考え方が違わないものから平和をひもとくという、今の具志堅さんの話は非常に説得力があると思います。 ひろみ/きょうは、いろいろお2人から話を伺って、私初めて聞いたこともあってたくさん勉強になりました。 お話をしてくださいまして、まだまだ熱い思いがあると思います。ときどきまたこうやってミキオさんの番組にゲスト出演をお願いしたいと思います。 お話をしてくださってますのは、遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さん、ありがとうございました。そして、上原妙さんでした。妙さん、ありがとうございました。 ミキオ/ありがとうございました。 ひろみ/さんごで、「いのちのリレー」。 ♪ さんご/いのちのリレー ♪

【エンディング】

ひろみ/さて、最後になりますが、ミキオさんから元気の出る一言で番組をしめたいと思います。 ミキオ/この元気の出る一言は、今回は、戦争を起こさないとか、戦争を抑止していくとか、世界が平和になるとか、これが1番の元気の秘訣ですね。これなしには、元気という言葉は、精神的にも肉体的にもあり得ないんです。人同士が殺し合いすることで、元気なんて表現はできないし、悩んでいるときに元気という表現もないから。だから、どうやって元気の源である平和をつくりあげていくかということを、あらゆる思想や、イデオロギーや考え方があろうかと思いますが、最後は話し合う、これが大事。 今回、翁長知事と安倍総理が話し合いするって、1カ月間工事を止めて話し合いするよという、あれはすごいことなんですよ。180度考え方の違う人が、話し合おうということが、ここが平和が生まれる最大のポイントなんです。俺はもうお前と考え方が違うと言ったら、もう話し合わない、もう抗争だというのでは同じ事の繰り返しになります。 この1カ月間どうなるかはわからないが、この話し合いというのはもの凄く期待してますね。ここに、政治家としての最大の冥利があるんじゃないでしょうか。話し合う。外交努力によって戦争を防げる。会談によって、交渉によって戦争を防げる。これと同じように、この1カ月間の国と沖縄県の交渉というのは、初めてなんです。交渉とつくものは。要請や講義は今まであったが、国と沖縄県が辺野古について交渉するというのは初めてなので、これはね成功させる。それが平和、それが元気になってくると思います。 ひろみ/ありがとうございました。 今週は平和をテーマに特別企画でお届けしました。 ミキオポストOnRadio、ご案内は本村ひろみでした。 そしてメインパーソナリティーは…。 ミキオ/下地ミキオでございました。ありがとうございます。 ひろみ/ありがとうございました。 具志堅/ありがとうございました。 上原/ありがとうございます。 ミキオ/上原さん、具志堅さん、ありがとうございました。 ]]>

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